腑に落ちた井伊屋敷の謎

正直に言うと、ばぁばは歴史があまり得意ではありません。

他人様が当たり前に知っていることを知らなかったりします。

 


散歩写真の整理と備忘録を兼ねたこのブログを書き始めてから、本を読んだり資料を集めたりネットで調べたりと、新たな学びの機会を頂き、ありがたく思っています。


(あのばぁばが歴史について偉そうに、、、などと考えると恥ずかしくて、友人・知人にはブログのことを内緒にしています。)

 

 


そんなばぁばが、にわか学習ながら個人的にはよく調べた!と自画自賛なのが、「大名屋敷の赤と黒

https://tokyoaruki.hatenablog.com/entry/2021/03/26/151119


だらだらと書いていますが、要するに東大赤門に代表される赤門は江戸時代にはいくつかあって、それらは大名家に徳川の姫君が嫁ぐ時に造られたものだ、、、と言う内容です。

 


錦絵などを調べたところ、大名屋敷の赤門が描かれたものがいくつもあり、それらは徳川姫君のお輿入の事実と合致しました。

 


ところが、その中にひとつだけ、納得がいかない大名屋敷があったのです。


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▲広重 名所江戸百景 外桜田弁慶堀糀町

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▲広重 江戸勝景 桜田外の図

 

 

錦絵に描かれているのは、桜田門外にあった井伊屋敷の赤門です。

弁慶堀との組み合わせにも風情があり、この他にも何枚かの錦絵に描かれています。

 


しかし、どう調べてみても、徳川の姫君が井伊家に嫁いだ痕跡はありませんでした。

 

 

 

なぜだろう??なぜ徳川の姫君が嫁いでいないはずの井伊屋敷に赤門があるのだろう、、、気になりながら、数日が経ちました。

 

 

 

 

そして先の日曜日の夜8時のこと。

 

大河ドラマ「青天を衝け」を見始めたら、例によって北大路欣也さん扮する徳川家康が登場です。

赤い甲冑を前に「ほぉ、懐かしい。"井伊の赤備え"ですな」と。

 


井伊の赤備え、、、赤備え、、、すとんと腑に落ちた、、、そんな気がした瞬間でした。

 

 

 

井伊家の菩提寺である豪徳寺には井伊屋敷から移築されたと伝わる赤門が現存しているとのこと。

いつか実際に足を運んで、この目で確かめてみたいと思います。

 

吉原を歩き、遊女を思う

今回は、数ヶ月前にかつての吉原エリアに足を運んだ時の写真を整理がてら、吉原について少し勉強してみます。(後日再訪の際の写真も加えました)

 

 

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▲広い道路の「吉原大門交差点」に「見返り柳」。

客が名残を惜しんで振り返ったとされる場所で、今は7代目となる見返り柳スカイツリーを後ろに風にそよいでいます。

 

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見返り柳から道を入りS字のカーブを過ぎた所が、吉原大門跡。「よし原大門」と書かれた街路灯が建っています。

 

吉原は、ここからしか出入りすることが出来ませんでした。浮世と現実を繋ぐ唯一の門。お大尽(お金持ち)に見染められ身請けされるか、借金の形(カタ)を奉公で返すまで、この門から出ることは出来ません。この地で生涯を終えた遊女も多かったことでしょう。

 

大門をくぐった気分で かつての廓中に入り、目貫通り「仲之町通り」を奥へと進んで「吉原神社」の飛び地「吉原弁財天」に向かいます。

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関東大震災のため、大門を出て行くことなく命を落とした遊女たちが祀られています。

震災の折に490人もの人が、この地にあった池で亡くなり、その慰霊のために大正15年(1926)に造立された観音様が穏やかなお顔で境内を見下ろしています。

 

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 浮世の儚さそのままに極彩色に彩られた境内には、素朴で小さな石仏たちが、所狭しと並んでいます。

中途半端な好奇心でお参りしては申し訳ないような気持ちになる空間です。

 


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▲弁財天の手前に吉原神社があるのですが、境内に団体さんをお見かけしたので、自粛下につき横目に通り過ぎました。

「角町」、「江戸一」、「江戸二」、「京一」といった提灯の文字に、昔ながらの町名が残っています。(詳細後述)。

 

 

 

 

ここで、吉原を描いた錦絵を見てみましょう。(国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」より)

 

 

かつて吉原大門の前には、江戸初期の治水事業として築かれた「日本堤」と呼ばれる幅広い土手(堤防)がありました。

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▲広重「名所江戸百景 よし原日本堤」には、堤の上をエッチラオッチラ駕籠に揺られて吉原詣する様子が描かれています。
 


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▲広重「銀世界東十二景 新吉原雪の朝」

1枚目の錦絵とは逆の向き、吉原大門から日本堤を望む構図になっています。

 

 

日本堤はかなり高さがあるので、そこから吉原大門までは直滑降ならぬ斜滑降?のカーブを描く下り坂になっています。(遊郭の中が見えぬようにカーブしているとも)

吉原詣の御仁が、この坂で衣紋を直し身なりを整えたことから、衣紋坂(えもんざか)。

 

 

▼その坂の曲線は、今も道路の形状(先述のS字カーブ)に残っています。地図に書き込んだ楕円が衣紋坂の場所です。

錦絵と地図のカーブの向きが逆のような気がするのは、絵心か?版画のためか?

楕円の左端、現在 吉原交番がある辺りが、吉原大門跡となります。

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(▲東京時層地図アプリから作成)

 

 

 

日本堤」は関東大震災の4年後に取り壊され、衣紋坂は坂ではなくなり、日本堤も平坦な広い道路になっていますが、その道路の名前は「土手通り」。また、近くの町名にもその名前が残されています。(台東区日本堤)

 


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台東区日本堤の「土手通り」には、スタイル抜群で目を引く「あしたのジョーの像」が立っていて、この辺りが漫画の舞台であったことを教えてくれます。

 

 

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▲こちらは、「土手通り」の「吉原大門交差点」近くに店を構える、その名も「土手の伊勢屋(天麩羅)」 と 「桜なべ中江(馬肉)」。

 

どちらも店構えに風情がある明治の創業で、往時には、吉原の客や関係者相手に昼・夜・朝と終日食事を供する繁盛店だったと。

 

 

馬肉は文明開花の明治時代にハイカラな食べ物として流行り、吉原には20軒を越す店が軒を連ねていましたが、今はこの店のみになったと、中江のホームページに説明されています。滋養強壮に良いとされる馬肉を提供し、「馬力を出す」の語源になったとか。

 

今は、ツレが「わざわざ遠くからお客さんと食べに来たことがあるわ」と言う、知る人ぞ知る名店のようです。

 

 

江戸地図(下)の中、吉原・日本堤の東側に川が流れているのがわかります。

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▲「伊勢屋」と「中江」は、今は暗渠となっているこの音無川に面した場所に店を構えていたのでしょう。(地図上の赤丸。今も同じ場所です。)

 

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(▲「中江」のホームページの写真をお借りしました。店の前に橋がかかっていることがわかります。)

 

 

 

再び、江戸に話を戻して、「江戸名所図会」の記述を読み解きます。

 

元々、江戸の町では、遊女屋が点在しているケースが多かったのですが、家康のお膝元 駿府の遊女屋が、江戸でまとまった街並みを成すことを上申して許され、現在の日本橋人形町辺りに遊郭を開きました。

 

やがて、上方(京伏見、奈良など)からも店が入り・・・現代で言うなら、巨大ショッピングモールに同業店が集まって集客を増やしていくというイメージでしょうか。

江戸町一丁目(開基からの店)、江戸町二丁目(鎌倉河岸から)、京町一丁目(麹町から)、京町二丁目(上方から)、角町(京橋角町から)、、、と整備して、実際、大層繁盛したようです。

 

そして、江戸の町並みが拡大して来たことと、折しも明暦の大火が発生し街が焼失したことから、代地として当地を与えられ、移って来たのが明暦3年(1657)のこと。

 

それ故に当地は、元の「吉原」と比して、長らく「新吉原」と呼ばれていました。

 

 

 

いずこにあれど、お上のお墨付きを貰った吉原は、天下お江戸の大遊郭。そこいらの色町とは格式違う文化の発信地でもありました。

 

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とりわけ弥生の花の頃(お花見)は格別、

春宵一刻値千金(春の宵は何ものにも替え難いほど趣きがあり)、

 

初秋の燈籠は、玉菊太夫がために始まり(人気の玉菊を弔って燈籠を飾り付ける様がひときわ見事)、

八朔の白重しろがさね(8月1日、家康入城の記念日にあたり、城内では白帷子着用で祝う。同日吉原の遊女たちは白無垢で客を迎える)は、高橋太夫により起こった習わしが、今に続く。

 

また、2度の月見も大層な賑わいである・・・


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と「江戸名所図会」に書かれています。

 

 

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▲2代広重 東都三十六景「吉原仲之町」

 

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▲東都歳時記より「吉原燈籠」

 

 

流行を作って集客・・・なんだか今の時代のインフルエンサーみたい?

 

そんな風に考えると、ずっと思い描いていた「儚くてか弱い遊女」のイメージだけではなく、粋の極みの中で凛と背筋を伸ばして強かに生きる女性の姿も見えてくるような気がします。

 

 

吉原が舞台の小説を、少し視点を変えて読んでみようかなあ・・・・・・

 

 

 

 

大名屋敷の「赤と黒」

本日は「赤と黒」について。

トランプにも赤と黒が使われているように、一対を成す色と言えますが、門にも赤と黒があるというお話です。

 

例年「大学入試始まる」「合格発表」といった大学関連のニュース映像に必ずといってよいほど登場する東京大学の「赤門」(国重要文化財)。

残念ながら耐震強度に不安ありとのことで、先月から閉鎖中です。赤門前で希望に満ちた面持ちでインタビューに答える若者の姿を、今春は見ることができないのですね。

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東京大学本郷キャンパスの地には、かつて加賀藩の江戸上屋敷があり、徳川家の姫君が加賀藩13代藩主 前田斉泰にお輿入れした際にこの赤門が造営さられたというのは、結構有名なお話です。

 

加賀前田家に嫁いできた溶姫は、11代将軍 家斉の21女、、、21女、、、21女!!!

 

家斉は、正室の他に多数の側室を持ち、判明しているだけでも53人の子供がいたと言うから、いやはや、もう、、、なんと言って良いのやら、、、。

 

無事に成人出来たのはその半数程度ですが、それでも、その若君や姫君をどこに養子に出し、どこにお嫁入りさせるか、担当のお役人さんは、さぞ頭を悩ませたことでしょう。幕府の安寧・大名家掌握の一策とは言え、おいおいおい!という感じです。

 

受け入れる側の大名家も、加封されようが、出世を約束されようが、実際のところ、屋敷の増築やらなんやらと藩財政への圧迫は半端ではなく、「めでたさも中くらいなりおらが春」(小林一茶)という感じでしょうか。中には実子が既にいるにもかかわらず将軍の子を後継に立てねばならない藩もあり、「騒動婿に厄介嫁」と揶揄されたとか。

 

さて、この赤門。

ある程度の官位以上の大名家が徳川の姫君を迎えるにあたって姫君の住まい「御守殿」を新築し、その門を丹で朱塗りする慣習から「赤門」と呼ばれ、江戸時代には該当するいくつもの大名家に赤い門が造営されていたようです。

 

 

暇だったので、大名家に嫁いだ徳川の姫君(「御守殿様」あるいは「御住居様」と呼ばれるようになってからの姫君)一覧表を作ってみました(「御守殿」と「御住居」の違いについては後述)。やはり家斉の姫君の数が目立ちます。

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江戸時代の錦絵などの絵画に、いくつかの赤門が描かれているのでご紹介します。

 

紀州藩赤門】(表❶)

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▲「徳川種姫婚礼行列図」狩野養和、東京国立博物館蔵(文化庁文化遺産オンライン」HPより)

 

赤い門が絵の端に少しだけ描きこまれています。

題名の通り、第10代将軍 家治の養女 種姫の華麗な婚礼の様子が描かれています。(家治は愛妻家だったらしい、なんだかほっとする)

 

 

(以下の錦絵については国立国会図書館HP「錦絵でたのしむ江戸の名所」からお借りしています)

 

佐賀藩赤門】(表❷)

こちらは、家斉の18女 盛姫の婚礼の時に作られた物でしょう。

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▲「山下御門之内」 広重

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▲「山下町日比谷外さくら田」(名所江戸百景) 広重

 

 

加賀藩赤門】 (表❸)

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▲「(狂句合)本郷」 広重

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▲「本郷通り」 2代目広重

 

 
広島藩赤門】(表❺)
家斉24女 末姫の婚礼に際して造営されたものと推察されます。
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▲「霞ヶ関全図」(「東都名所」) 広重

 

 

 

こんな風に江戸時代には相当数あった赤門(御守殿門または御住居門)ですが、火災などで焼失した場合に再建してはならない慣わしで、現存する赤門は大変貴重です。

 

 

あまり知られていませんが、実は東京大学に程近い文京区の西教寺に、姫路藩上屋敷の中庭(現・大手町 パレスホテル辺り)にあった赤門が移築され現存しています。

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この赤門は、家斉の25女喜代姫が、5代藩主酒井忠学に迎えられた際に造営されたと伝えられています。(表❹)

 

酒井家の官位が少し低かったことから、喜代姫の住まいは「御守殿」ではなく「御住居」と呼ばれていました。

先述の東京大学の赤門も、前田斉泰が出世した際に、「御住居門」から「御守殿門」に昇格したとか。

 

 


余談ですが、ばぁばが好きな姫路の銘菓「玉椿」は、この喜代姫と酒井忠学の婚礼に合わせて考案された、歴史ある上品な和菓子です。

 


https://harimarche.com/store/Iseya/tradition.html

 

姫路の銘菓「玉椿」の「伊勢屋本店」|和菓子通販|姫路の銘菓 玉椿 - はりまるしぇ「伊勢屋本店 銘菓玉椿(たまつばき)」のページは、「はりまるしぇ」内のコンテンツです。姫路の銘菓「玉椿」の伊勢屋本店。元禄年間よりの老舗の味をご堪能ください harimarche.com
 

 


 

 

そして、赤があれば黒。

 

 

御守殿門(あるいは御住居門)としての「赤門」に対して、大名屋敷の表門が、通称「黒門」です。

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上の写真は、現在、上野の東京国立博物館敷地内に移築されている鳥取藩(因州)池田家の江戸上屋敷(表❻)の表門だった「黒門」(国重要文化財)です。

明治以降に高輪東宮御所に移築され、高松宮家に引き継がれた後、昭和29年、現在の場所に移築修理されたものです。

重厚感のある堂々たる門構えです。

 

この鳥取藩池田家というのは、東大赤門ゆかりの溶姫の四男 利順が1848(嘉永元)年に養子縁組した先です。

外様大名同士の養子縁組は異例でしたが、溶姫の願いもあり、将軍の孫ということで実現したのです。しかし、藩主となった利順こと池田慶栄は、初めての国入りの途路、17歳で早世してしまいます(1850年、毒殺との噂も)。

 

溶姫の赤門とその息子養子先の黒門。その二つが代表的な大名屋敷門として残り、国の重要文化財となっていることに、因縁めいたものを感じずにはいられません。

 

やり手の溶姫が「私のお輿入れにあの門なのだから、可愛い利順ちゃんは、もっともっと立派な門で迎えられるべきだわ。利順ちゃんは恐れ多くも先の将軍様の孫であらせられるのだから。」とおねだりしたのでは、、、とか、、、ばぁばは妄想してしまうのでした。

(真面目に歴史を学ぶ人に怒られそうだよ。あくまでも、ド素人ばぁばの勝手な妄想です。実際のところ、こちらの黒門が造られたのは、その様式から江戸末期と推察されるものの詳細不明とのことです。)

 

 

 

最後におまけの写真。

 

大名屋敷の表門としての黒門ではなく、専修大学の「黒門」。

「東大といえば赤門」に対して「専修大学といえば黒門」(ついでに「中央大学といえば白門」ですって)という、大学の代名詞にもなった門が、神田神保町に再建されています。

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大名屋敷の赤門・黒門、大学の代名詞としての門、地名としての赤門(横浜)・黒門(福岡、大阪、名古屋)、、、一言に「赤門」・「黒門」と言ってもなかなか奥が深いものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

八百屋お七ゆかりの白山・駒込を歩く

前回のお屋敷町西片に続いて、そのすぐ北にある白山・駒込エリアを歩きます。

地下鉄南北線本駒込」駅からGO!

 

❶ 目の前に長蛇の列!いつ通っても行列の中華「兆徳」さんです。いつか行ってみたいけど、行列に萎える・・・本日もあきらめて本郷通りから小道に入ってみます。

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 『江戸(天和2:1682年)の火事で八百屋八兵衛一家は焼け出されて駒込の寺に避難する。そこで娘のお七は寺小姓と恋仲に。やがて家に戻ったお七は、「家が火事になればまた想い人に会える」と思い詰めて火付け。ボヤで消し止められるも、放火は大罪。哀れ、齢16のお七は市中引き回しの上、火あぶりに。』・・・井原西鶴好色五人女」に取り上げられ、歌舞伎でも演じられる「八百屋お七」の悲しくも情熱的なラブストーリー。


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❷ 大圓寺には山門に入ったすぐ正面に、八百屋お七を供養して1719年に建立されたお地蔵様「ほうろく地蔵」が祀られています。

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また、道を挟んで向かい側になる同寺の墓地には、大河ドラマ「青天を衝け」で玉木宏演じる高島秋帆斎藤緑雨の墓があります。せっかくなのでお参りしていきましょう。

 

春の陽ざしの中、そこここに優しげな花が咲き、管理の行き届いた気持ちの良い墓地です。こんな所で永眠出来たら気持ち良いだろうなぁと思う私でした。

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❸ さて、中山道を渡って浄心寺坂を下ると、右手にお七が実際に避難した菩提寺「圓乗寺」があり、現代的に建て替えられた本堂の前にお七の墓が建っています。

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❹ 「白山」の名前の由来となった「白山神社」にも回ってみましょう。

10世紀、加賀一之宮白山神社を現在の本郷一丁目に勧進したものを、2代将軍秀忠の命で現・小石川植物園の場所に移され、その地が後の5代将軍綱吉の屋敷となるにあたって、現在の地に落ち着きました。

白山神社が鎮座していたという訳で、綱吉の屋敷は白山御殿(後に幕府の御薬園となり、小石川養生所、現在の小石川植物園へと変遷)。

その縁で、綱吉と生母桂昌院の篤い信仰を受けていました。

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都心の駅近ですが、アジサイの季節が美しい趣のある神社です。

 

 

❺ 白山駅そばには、このところよくテレビで紹介される「小田原屋」さん。「すき焼き袋」が珍しくて美味しい、お惣菜の種類豊富なお店です。

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 「小田原屋」さんと小さな百均の間を通って本郷通りに戻ります。魅力的な佇まいのカフェもあります。

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❻ 本郷通りに出た左角に「駒込土物店跡」(こまごめつちものだなあと)の碑が立っています。

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 「土物」すなわち「泥付き野菜」です。この天栄寺の門前(街道の辻)に大きな「さいかち」の木があって涼しい木陰を作り、近郊から江戸に野菜を売りに来た農民が一休みついでに分荷、商売をしたことから青物市場へと発展したとか。

江戸時代、この辺りには千住・神田と並ぶ「江戸三大青果市場」のひとつ「駒込青果市場」(辻のやっちゃ場)がありました。

お七も少し南の本郷東片町の大きな八百屋の娘だったそうです(諸説あり)。

 

 

直近の第164回直木賞受賞「心淋し川」(西條奈加)の中でも、この「やっちゃ場」に野菜を買いに来るというエピソードが出てきます。そして魚も買って・・・

 

 

江戸期の地図を見ると兆徳さんあたりに「サカナ丁」という文字が見えます。魚市場の跡に人気の中華屋さんが出来てる不思議。人を寄せる場所なのかしら。(これだけのために、地図をいじくってる私って・・・。ついでに現代版地図に本日の訪問先を書き込みます。)

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因みに、駒込青果市場は関東大震災後、昭和12年に東京中央卸売市場豊島分場として移転開業。巣鴨にほど近い、城北地区に野菜を供給する現・豊島市場です。

 

 

❼ さて、本郷通りを少しだけ北に進むと、右手に大きな山門が見えてきます。学問所の証として「栴檀林」の額が掲げられています。

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元は太田道灌江戸城築城の際に井戸の中から「吉祥」と書かれた金印を見つけ、和田倉門あたりに「吉祥庵」として祀ったことが始まり。家康の入城により現在の水道橋の地に「吉祥寺」として開山するも、江戸の大火で焼失してしまい、現在の地に移ってきました。

 

 

余談になりますが、「東京の住みたい街」常連の「吉祥寺」は、水道橋にあった同寺の門前町に暮らしていた人々が明暦の大火で焼け出されて移り住んだことから、その名前がついています。

 

ここ「駒込吉祥寺」は、往時には千人を超す学僧が学び、湯島聖堂と双璧する江戸の学びの地でした。

 

山門と経蔵がかろうじて東京大空襲による焼失を免れ、往時の勢いを感じさせる長く広い参道には枝垂桜が美しい、曹洞宗寺院です。

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(戦火を免れて残った経蔵、春秋)

 

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 (説明するまでもなく秋に撮った写真です、、)

 

同寺は譜代大名菩提寺ともなっており、壬生藩主鳥居氏、松前藩松前氏などの墓所のほか、二宮尊徳榎本武揚などの墓があります。

 

そして参道の脇で目を引くのが、「お七・吉三郎の比翼塚」。

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井原西鶴がお七をネタに「好色五人女」を書くにあたって、舞台にしたのがこの「吉祥寺」。「好色五人女」の中では、お七はこの駒込吉祥寺に避難して、同寺の小姓「吉三郎」と恋に落ちたと、いう設定になっています。

 

「吉三郎というのは、お七に火付けをそそのかしただけのやくざ者だ」とか「そもそもお七なんていない」とか喧々諤々。

 

お七の悲恋の物語は謎に包まれたままですが、歌舞伎や浮世絵をはじめ多くの作品の題材となって語り継がれ、今も昔も人々の心を強く揺さぶり、お七供養の「ほうろく地蔵」が祀られ、「お七・吉三郎の比翼塚」が建てられ、人々は手を合わせ続けるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西片お屋敷町を歩く

基本ふらふらと歩くのが好きですが、散策前に一応の目安をつけてから出かける日もあります。

 

今回の目的は取り敢えず、阿部家の中屋敷跡。

 

大河ドラマ「青天を衝け」で、幕末の動乱期に江戸幕府の老中として提督ペリーとの外交交渉に尽力する阿部正弘(キャスト: 大谷亮平)が、老中になる前に暮らしていたお屋敷です。

 

 

阿部家の中屋敷跡は現・文京区西片に位置します。この地は明治以降、東京大学に近い立地から学者や文人たちが多く住み、今もとても上品で静かなエリアです。

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素敵な現代のお屋敷群にうっとり💓💓💓挙動不審者にならないよう襟を正して?歩かなくては!

 

 

教育熱が高い文京区の中でも特に人気のある区立「誠之小学校」学区です。そもそもこの誠之小学校の前身からして、江戸での人材育成に力を入れていた阿部正弘の福山藩藩校「誠之館」です。

阿部正弘備後国(現・広島県東部)福山藩の第7代藩主ですが、江戸で生まれた彼のお国入りは一度限り。火の車の藩政にもかかわらず、この「誠之館」に力を注いだそうです。

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誠之小学校は現在、大規模な建て替え中です。

 

 

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 歴史を感じられる曙坂と石垣
 

 

 

ところで、この辺りは、江戸時代に入る前から二つの街道沿い(岩槻街道中山道:現・本郷通り国道17号)に町並みが発展していました。

 

それが、徳川初期に江戸城の北面防衛のため武家屋敷で固められることになり、住人は中山道の東側への転居を命じられます。これが「駒込東片町」。町人は「片方」に追いやられちゃったんですね、昔からお上の言うことには逆らえません。

 

そして、大名屋敷や徒歩組屋敷となった西側は、単に「東片町向側」と呼ばれていましたが、明治に入って「西片町」と命名されます。

後の住居表示改正によって「東片町」の名前の方が消えてしまい、今は「西片」の名前と学者町の空気感だけが残っています。

 

 

江戸安政年間の地図と現在の地図を並べてみましょう。

江戸地図の中央に「阿部」屋敷。右下「加州」は加賀藩江戸屋敷、現在の東京大学です。

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江戸期の道を生かして、現在の道路が走っていることがよくわかります。本郷追分(地図中央よりやや右)が特徴的なので、わかり易いですね。この二つの街道の分岐には、江戸時代から続く老舗酒店「高崎屋商店」が現在も店を構えています。

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江戸期の地図をズームすると・・・

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阿部屋敷の北東に「片丁」の文字が見えます。
 
 

 
新旧の地図と睨めっこした結果、「赤で囲った辺りが阿部屋敷だろうか?」とおよその見当をつけて散策スタートしました。

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古地図片手に現在の道を歩きながら、新旧のお屋敷を見たり、史跡を見つけて歴史を調べなおしてみたり・・・そんな感じが楽しい江戸・東京歩きです。
 
 

谷根千さんぽ その2 文京区、台東区、荒川区を歩く

谷根千さんぽ第2弾、地下鉄根津駅から谷根千エリアを北上するルートです。

 

 

❶ まずは、「はん亭」。上野不忍池そばにあった串揚げ屋「くし一」さんが趣ある建物に惚れ込んで移転。更に半歩前に進むように「はん亭」と命名したとか。

大正初期からの建物がなんとも風情があります

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❷ 地元で戦後長く愛されてきた銭湯「宮の湯」の建物を昨年リニューアルオープンしたのがこちら、その名も「SENTOビル」。煙突、ボイラー室はそのままに、地元の人々が集える場所にとデザインされ、「亀の子束子 谷中店」やおしゃれな「カフェ」が入っています。

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谷根千エリアは新旧融合がとても上手。古い建造物を大切にし、「今」に生かし、「未来」につなぐ、そんな町の心意気を感じます。

 

 

❸ 明治期の古民家を利用した「根津の甚八」は有名な居酒屋さん。一世を風靡したイケメン俳優 故・根津甚八さんから命名

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同じ通りにあるお花屋さんも、ヨーロッパの古いレンガ畳の街並みに洒落たお花屋さんを見つけたような、そんなワクワクした気持ちになります。

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❹ 不忍通りは低地ですが、それを背に日暮里方面に向くと何本か上りの坂道になっています。

南から善光寺坂、三浦坂、赤字坂、三崎(さんさき)坂、、、

今日は「三浦坂」を上がってみます。坂の左手に美作国真島郡勝山藩の三浦家下屋敷があったことからこの名がついています。

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❺ その三浦家屋敷跡にあるのが、「大名時計博物館」です。鬱蒼と木々の茂った敷地の中、レアな和時計(陶芸家 上口愚朗氏の収集した、大名のお抱え御時計師たちの力作)を見ることができます。入場料300円なり

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❻ 三浦坂から1本谷中寄りの「赤字坂」。いえ、「あかぢ坂」。ここは明治の大財閥渡辺家のお屋敷(写真の石垣の上辺り)があったエリアです。

明石屋こと渡辺治右衛門、略して「あかぢ」。東京の東エリアの土地売買で財を成し、丸の内の土地買収を三菱と競い合うほどの大財閥でした。

渡辺銀行が昭和初期の金融恐慌を引き起こしたことから、お膝元の町人たちは、取り付け騒ぎの大損害。google mapには堂々の「赤字坂」と表記されています。

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余談ですが、森鴎外の妻 志げの前夫はこのお屋敷のイケメン三男坊。日本橋芸妓との深い仲が新聞ネタになり、実家が怒って志げを連れ帰り、後に鷗外の奥さんになります。


 

 

❼ あかぢ坂とクロスしてまっすぐ谷中方面へ行くと、三崎坂との交差点左角に土蔵造り風の特徴ある建物があります。

こちらは、台東区立谷中小学校。小学校の前が「三崎(さんさき)坂」です。坂を下ると千駄木駅、反対方向は谷中霊園に上っていく坂です。

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❽ 今日はそのまま直進します。以前ご紹介の「初音の森」を過ぎると、右手に小さな公園があります。岡倉天心の旧宅跡で、彼の功績を記念して胸像を収めた六角堂が建てられています。

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❾ 向かい側にはギャラリー併設の素敵なカフェ。

谷中には人気のカフェがたくさんあります。

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かき氷「ひみつ堂」はいつも行列で、待つのが苦手な私はなかなか入れません。

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❿ もちろん、ここは谷中。お寺もたくさんあって、ふらりと覗いてしまいます。

宋林寺さんにお邪魔しました。江戸中期の鋳物師・鈴木定久の手による銅鐘が目を引きます。

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⓫ いよいよ日本で一番有名な階段?「夕やけだんだん」、谷中銀座の端っこに到着です。ここから見る夕焼けと谷中銀座の人波、コロッケの香り、、、昭和レトロな景色が郷愁を誘います。

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⓬⓭ 谷中銀座の誘惑を振り切って、しばらく道なりにまっすぐ進むと右手に急な坂道、富士見坂です。

都内に富士見坂数々あれど、実際に富士山が望める唯一の、、、だったはずが、とうとう見えなくなってしまいました。

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坂の手前の「法光寺」には陸軍少年飛行兵の慰霊碑が建てられています。合掌。

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⓮富士見坂を上りきると、そこは諏訪台と呼ばれる高台です。昔から西に富士、東に関東平野、その先に筑波山、日光山を望む風光明媚な土地で、このあたりの寺院は別名「雪見寺」「花見寺」として人々の集まるところでした。「道灌山の虫聴き」などの風流も有名絵師の題材となって残されています。(写真は、浄光寺、諏訪神社

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今は眼下にJR線路が走り、鉄道好きに嬉しい見晴らしで、「虫の音」ならぬ「電車の走行音」に心が躍ります。

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⓯ 諏訪神社前の第一日暮里小学校の門前には同校卒業生でもある高村光太郎の書による「正直親切」の碑。

谷根千エリアは、現・東京藝術大学にほど近いことから、芸術家たちの居宅も多いようです。

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⓰ 道の突き当りにある「西日暮里公園」は、明治期には加賀藩前田家の墓所だった緑深い公園です。山手線の西日暮里駅前と思えない静けさです。

かつて道灌山ひぐらしの里と呼ばれ人々の憩いの場であった諏訪台の様子や、崖下の船着き場の目標となった松があった歴史などが、記されています。

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、、、いつの間にか荒川区に入ってる!!

 

 

 

 

⓱ 道灌山通りを超えると、超名門高「開成高校」です。思いっきり駅前でアクセス良いですね。

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⓲ そろそろ散策も終わりです。今日のランチは美味しいラーメン屋さん「麺や義」。あっさりめの和風スープが絶品で、来訪2回目です。ラーメン王・石神さんのサインもありますね。

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⓳ こちらのお店は「コロナ禍でも頑張っているお店」と先日テレビで紹介されてました。

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⓴ 不忍通りまで戻れば、上野松坂屋行きのバスがあるので、帰宅も便利です。

 

文京区からスタートして台東区を突っ切り荒川区まで歩きました。

もう数分北上すれば北区の田端。

 

今回のルートはこんな感じでした。ご参考まで。

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谷根千さんぽ その1 羽二重団子食べに行くの巻

空気は冷たいですが、もうすっかり春ですね!

明るい陽ざしに誘われて、谷中を散策してきました。

 

谷中と言えば、谷中銀座よみせ通り、三崎坂(さんさきざか)、、、と見どころはたくさんありますが、

今日は、千駄木駅をスタートして羽二重団子本店を目標に、東西に散策です。

せっかくなので、大河で注目の渋沢栄一の墓(谷中霊園も回ってみようと思います。

 

❶さあ、千駄木駅不忍通り団子坂下交差点から出発です。

 団子坂上には森鴎外記念館がありますが、今日は、横断歩道をミスタードーナッツ側に渡って進みます。かつて団子坂で賑わった菊人形に因んだ佇まいも趣深い「菊見煎餅総本店」の前を通って、よみせ通りへ。

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団子坂下交差点

❷❸よみせ通りに入ってすぐ、右の路地先に鰻の名店「吉里谷中総本店」とちょっと気になる「指人形笑吉工房」を発見。

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鰻 「吉里 谷中総本店」:古民家レストラン

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指人形笑吉:3人お客様がいたら上演してくれると

 

❹谷中は路地に入っていくと気になるお店をたくさん見つけることができます。こちらのYanaka Red House Button Gallery。現在は予約制とのことですが、猫のオブジェも可愛らしくて気になりすぎます!

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❺路地を抜けると、急に視界が開けて、子供たちの楽し気に遊ぶ姿。ここは、台東区防災広場初音の森です。

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❻広場と谷中コニュニティーセンターの間を通って階段を上って右手に進むと、、こんな素敵な小道に出てきましたよ。この観音寺築地塀(写真左)は登録有形文化財とのことです。

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❼谷中にはお寺が山ほどあります。少しだけお邪魔してみます。こちらは、谷中七福神巡りのひとつ(寿老人)、長安寺の境内です。

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谷中霊園に到着、東京スカイツリーが見えてきました。谷中霊園は塀に囲まれておらず、とてもオープンで優しい印象です。

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❾イケメン時代劇俳優だった長谷川一夫墓所もあります。(若い人は知らないかな。写真は案内碑。)谷中霊園には、著名人のお墓がたくさんあるんです。

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❿向かい側の公園には、幸田露伴の小説五重塔のモデルとして有名な天王寺五重塔がぽっかりとした空間にその礎石のみを残しています。心中騒動で焼失してしまったのです・・・

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護国寺天王寺の本堂はこちらになります。元禄時代には富くじの興行を許されて賑わった境内も、今は静かで心洗われる清潔な空間です。谷中七福神巡りの一寺(毘沙門天)でもあります。

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天王寺を出て左手、霊園を右手に見ながらしばらく霊園沿いに進むと、電車の音が聞こえてきます。ここは「芋坂」。この地で自然薯が取れたことから命名されたとか。彰義隊が敗走して駆け下りた坂としても有名です。今はJRの線路を渡る橋が架けられ、JR各線のみならず京成本線も見ることができて、跨線橋の上は鉄道好きには堪らない絶好のビューポイントとなっています。

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   (芋坂を下り切ったところに、、、)

⓭今日の最大の目的地「羽二重団子本店」があります。

芋坂を駆け下ってきた彰義隊は、当店に立ち寄り、刀、槍などを投げ捨て、そこいらにあった野良着に着替え農民に扮して日光奥羽方面に逃走したとのことです。というわけで、店には彰義隊たちの置き土産となった刀などが展示されています。

焼醤油とあんこのお団子2本と煎茶セットを美味しくいただきました。食い気が勝ちすぎて写真を撮り忘れるという失態(><)。当店のお団子は、夏目漱石正岡子規司馬遼太郎といった文豪たちも好んで食し、その作品にも登場しています。

夏目漱石に因んで、猫の形の最中もあります。

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⓮再びJRを超えて谷中に戻ります。谷中霊園に通じる御隠殿坂の東京っぽくない長閑な感じがとても心地よいです。

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⓯右手に今年の大河ドラマの主人公渋沢栄一墓石」が見えてきました。とても大きいので見つけ易く、またオープンで誰でもお参りしやすい気配です。

右隣は最初の奥さんの・・・と教えてくださるのは、霊園の案内のおじさん。私は素通りしてしまったのですが、「栄一のお墓はどこですか?」と尋ねる方に「この先に、、真ん中の大きいのが吉沢亮さん、右隣が橋本愛さん、、、」と説明されていて、ちょっと笑ってしまいました。谷中霊園ってなんてお茶目で明るいんでしょう。

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⓰こちらは草彅剛の、、、( ´∀` )。さすがに立派な門で守られています。正面向かって左手が徳川慶喜、右が奥方のものです。

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谷中霊園を抜けて、三崎坂千駄木方面に下り始めましたが、こちらはよく通る道なので元の道に戻ってみます。道の突き当りは朱色の門が目を引く加納院です。春の花に良く映えます。

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⓲防災広場の階段を下りずにまっすぐ北に進むと蛍坂に入ります。昔は蛍の名所だったそうです。

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⓳谷中はクリエーターの街。ハンドメイドのお店がたくさんあります。新しくオープンしたHOW HOUSE EASTです。各種個展などが開催されます。

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千駄木駅まで戻ってきました。駅すぐそばの「利さく」。ここのおにぎりが好きなんです。お店の雰囲気も谷根千らしくこじんまりしていて落ち着くカフェです。

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以上、今日は約9,000歩の散策でした。

今日のルートはこんな感じです。ご参考まで。

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